取り戻せ語彙力

ちかごろ語彙力の低下を感じるためにリハビリと修行と暇つぶしと現実逃避のためにやってみんとしてするなり

映画「ミッドサマー」を観た。伝統と文化とカルトとハーモニーと。なんとなく伊藤計劃を思い出した。

一部で話題の映画「ミッドサマー」を観てきました。
人連れていくと鑑賞後になんともいえない空気になるというので、たまたま取れた休みのモーニングショーでスカッとキメてきました。
これがまたキメるという表現がぴったりくるような内容で演出で映像で音楽であり、個人的にまさかのお気に入り枠に入りそうなスリラー映画です。
人は選ぶといいますか、「この映画が好きで何回も観に行ったの!!」なんていうひとはおそらくメンタルに不調をきたしているため速やかにセラピーを受けるべきでしょう
そしてこの言葉は僕自身に返ってくるのか??

個人的には伊藤計劃のハーモニーを彷彿させるなあと思いました。

※この先はネタバレも含みます※

 さて、主人公のパニック障害持ちのメンヘラがちで彼氏に振られる目前のダニーは躁鬱だか二極性障害だかの妹の狂言めいた言動に振り回されて、それがとてもつらいだいじょうぶなの?と両親に電話をかける場面からはじまります。
この時点でもうキツイ人は相当きついなと思いましたね。
自身がパニック持ちだとか家族のあれやこれで弊害を受けている人はそうとうにつらいリアルな描写で。
そのうえで彼氏であるクリスチャンに電話するも電話先では友人たちと別れるか?別れないのか?重すぎるだろその女?みたいな会話もされていて、ダニの地獄を描いていくのかな?とふと思った矢先に衝撃の事実が!!

ダニの妹氏、両親を巻き込み無理心中である。
あ、もうホントにきつい。
原因も原因だし結果が最悪すぎる。

まあ急に天涯孤独になったダニをクリスチャンも切るに切れずに時は流れて、夏休み直前、学友ペレが故郷の祭りにみんなを招待したいと言い出すのです。

そう、その先が件のホルガ村です。
行く行かないのドタバタとスウェーデンまでのトリップとお薬によるトリップを経て、村の儀式がはじまるわけであります。

そこでいろいろとペレがホルガのことを教えてくれるわけだわ。
いわくホルガの民の人生は四季に例えられると。

0~18は春、18~36は夏、36~54は秋、54~72は冬、そこで一周すると。
そうなれば自然と浮かぶ疑問が72歳に達したものはどうなるのか?
その解答となる≪アッテストゥパン≫の儀式からホルガ村の異常に気付くのです。

と、ここまでが非常に眠たくなるような作りなので急に前述の儀式で一気に目が覚めたわけで。

さて、ホルガは共同体といわれています。
共同体というのは個ではなく地域としてまとまって生活していくようなイメージがあるかと思います。
わかりやすいところで登下校時の通学班だとか旗振りの保護者とかね。
そういったおのおのが役割をもって地域的に活動し支えあっていくことがいわゆる共同体ということで。


ホルガ村はもっと強固な共同体として活動しています。
ひとつのコミュニティとして完全に機能しているため、個々の役割を果たすことに念頭が置かれそこが重要視されるために集団の目的のためには命をなげうつこともいとわないと誰もが理解しています。

さて、行ってしまうとアッテストゥパンの儀式というのは、72歳に到達した老人が崖から飛び降りその命を失うというもので、ここは衝撃的にあるいは単純に飛び降りればこうやって死ぬ、ということが描かれています。
するとまあよそからやってきダニないし部外者のわれわれはなんてことを!!と当然騒ぎ立てるわけですが、ホルガの代表は「説明していなかったの?これは名誉なことなのよ?」とはたから見ればかなりいかれたことを述べますが、さて一歩引いてこれが村独自の伝統文化といわれたときに部外者が糾弾していいものか、残すべき触れるべきではない文化として受け入れるべきか?
その点で言うと僕個人は伝統であればそこは尊重しようという気になってしまうわけで。
ところが登場人物の英国人米国人は敬虔なクリスチャンですからあるいは常識的なのかこんなのはおかしい!一刻も早く帰りたいと叫ぶというわけひともいるわけで。
まあ当然帰れないんですけど。
それどころか文化人類学を学んでいるクリスチャンとジョシュに至っては論文の題材にするんだと興味津々でもうこれは良い結果にはならないだろうな、と諦めの目で見ておりました。
なので、ダニも付き合わされてさまざまな儀式に参加してしまうのですよ…。

さて、おそらく主人公のダニはちょっとメンタル不調なのでホルガ村の共同体としての活動はかなりの癒しになってしまうのです。
家族を失ったばかりで、家族変わりとなってくれるひとたちはとても魅力的に見えるのでしょう、明らかに共同体の域を超えて狂信的なカルト集団なんだけど、所属している団体の異常性というのは中にいるときには全く気づけないもので…。
前述の「説明していなかったの?」と言われたペレなんて説明不要で受け入れてくれると素で思っていたんじゃないかなぁ。

はたから見れば残酷で個人の意思なんてまったく尊重していないホルガの村人は誰も悪意なんて持たずにこれがまたすげえ怖いんですわ。
でもその個の意志がなく共同体として集団然としたまま役割を全うするというのはすごく幸福なことなのではないかと思ったりもして。

そこで思い出したのが、伊藤計劃のハーモニーで描かれた『意識のない』民族である。
個人としての意識を持っていても集団の意識で行動が決まるなんて、かの人のように恍惚なのだろうな、と。

結果的にダニ自身は笑顔で作品は終わるんだけど、いわゆるハッピーエンドかなー?と死人出すぎだし倫理的に考えるとヤバすぎ案件なのだけど、ホルガ村の一員として役割を全うすることは幸せだろうなと思います。
教義に生き、教義に死ぬ。
宗教的にはかなりすばらしいことでしょう?解脱?

なので日々自意識弱く立場に悩んでいる僕にはすこしあこがれて見れたりしたのでしょう。
ああはなりたくないけどね。
考察がてらもう一回観てみようかな…。