取り戻せ語彙力

ちかごろ語彙力の低下を感じるためにリハビリと修行と暇つぶしと現実逃避のためにやってみんとしてするなり

センチメンタルとノスタルジーと郷愁感と切なさと、エモさ

ひさしぶりに大学の時代のひとたちと飲みにいった。
テキトーにご飯か飲みをして、フラフラっとダーツに行くのがいつもの流れで、今回もそんな流れだった。

話をして、遊んだ、感じることがみんな変わったようで根底の部分は変わった居ないなということで、自分もやはりそう感じてもらえてるのかな、なんて少しも成長してないなという煽りじゃなくて当時から今日までが地続きでみんな変わらず生きていてくれて本当によかったなぁ、とセンチメンタルに感じたわけだ。

と、端からはそう見えても、一歩引いてみたりよくよく話し込んでみると、良くも悪くも歳を重ねて時の流れを感じたりして、精神的な本質は変わらなく、肉体的にはやっぱり酸化・老化しているのかな、なんて思って学生の時とはやはり勝手が違う部分があり、そこに関してはノスタルジックな気持ちになる。
地元に就職して実家通いだから生活半径なんて変わっていないのにね。
自分が変わらずとも周りは変わっていく寂しさみたいなものかもしれない。

いつも通う道でも、ときたま通る道であっても、自分の意志とは関係なく街は変わっていっていることを常日頃よく感じるようになっている。
昔の記憶・映像が瞼の裏と脳裏にチラついて、ちっとも現実を受け入れられないでいるのかもしれないな。
あのときのあの場所はもうどこにもなくて誰いないんだな、なんて村を焼かれたエルフみたいな郷愁感を感じたのかな。
復讐心とかそういうのはないけどね。
他意は他意だけどそこに悪意はなくて善意で街は変わっていくのだろうから。

そうしてくると、どうしてもなにかこみ上げてくるものがあってそれはなかなか説明がつかないんだけど、変わりゆく世界や街や人に合わせて自分は変わっていけているのか、そも変わっていく必要はあるのかななんて。
受け入れたくない変化は拒んでもいいし、自分の思う形へ変貌させてもいいわけだし、他者の意見だけで自分を取り繕う必要はないんだよね。
ようやくちょっとその辺が見えてきて、自分のここまでの人生の歩み方を思い返すと切なさがある。

ひとひとりごとに人生があってエゴがあって流れるままに流される人もいれば流れを作っていけるひともいるんだよなぁ、とピンと来た。
人はどこまでも自由でだからこそ個人であってパーソナルで独立していてそれでいってやっぱり最後は一人ばぼっちなんだろうな。
そういうのが僕としてはエモさになるんだけどそうでもないのかな。
エモってのはエモーション、エモーショナルってことだから辞書で引いたら感動的ってことだからなんでもいいから心が動いたり響いたりしたらエモいってことでしょう。

感動ってのは感傷にも似ていてそれはエモくてセンチメタリックでノスタルジックでどうにもならないことなんだろうな。
できることなら手の届く範囲はどうにかしたところだな。

くらむぼんみたいに。
ふわふわ