取り戻せ語彙力

ちかごろ語彙力の低下を感じるためにリハビリと修行と暇つぶしと現実逃避のためにやってみんとしてするなり

あの日飛び出したこの街と君が正しかったのにねぇ?

たまたまMステを眺めていたら2時間スペシャルで椎名林檎女史が出演かつまさかの正しい街を演奏してくれた上にサポートメンバーがナンバーガールから田淵女史が出ていたりしてサブカルおじさんとしては半ば臨死体験のようなできごとでしたよね!!

音楽というのになかばはまり始めたのは高校のころでして、ポケモンとかスレイヤーズの8cmシングルをふわふわと買っていたゆるオタであったのだけども、塾帰りのラジオで流れたTHE YELLOW MONKEYのプライマルあたりでロックの洗礼を受けたのでした。


THE YELLOW MONKEY - プライマル。

おそらくこの曲がバンドというものの曲を意識して買った初めてのアルバムで、知った瞬間に解散されたという苦い思い出です。
ここ最近復活してくれたし、時折、吉井さんのソロプロジェクト聴いていたりしたので困ることはなかったのだけども。

それで高校進学したら音楽聞くんだよーという友達とCD貸し借りしたりとにかくCDを買い続けるという日々を過ごしていたのでした。
ギターも若気の至りで買ったけど、結局まだ弾けないね。
聞き専のままどのくらいの年月が過ぎたのやら。

CDで聞くことばかりで田舎の子で地域から出ていくという発想がなかなか無くて、ライブやフェスに行き始めたのは大学卒業まじかだったような?
大学の友人に誘われて、観に行って、こんなに素晴らしい空間があったのか!!、とそこでもう一回洗礼を受けたような。
革命なんてトランプで言えば2回やったら元通りになってしまうのだけど、そこからなかなか傾倒し始めて?ちょこちょこライブやフェスに行けるようになりました。
だいたいソロ活なんだけどね、いまもときどき行く。

みーんな同じ方向向いて興奮して好意を一方向に向け続ける熱さ、その熱量というのは凄まじくて、普段テンション下げ目な僕でも嫌でも踊ってしまうのだ。

ああ、またライブに行きたくなってしまった。
行きたいときに行ったほうがライブは良い。
それこそバンドやアーティストを知った瞬間に次開催のライブに行くくらいの早足が必要だよ。
なぜかという高校~大学時代に愛してやまなかったバンドがいたのだけども、お金がたまったら、近くに来てくれたら、なんてことを思っているうちに死んじゃったんだよね。
バンド活動休止や活動ならいつか復活もあり得るんだけど、死ぬのはさすがに無しだろう。
自殺でもなく自然死だったらしいけど、それはさあ本当にどうにでもできないから困ったよね。
関係はないけどその年に彼女に振られてみたり、就職失敗して就職浪人したり、嫌なことがありすぎて、本当にろくでもない年だったなぁ。
いまとなって、笑え、いまでも笑えないか。
ろくでもない年だった。

それでもいまだに音楽は聴き続けている。
きっとこれからも聞き続ける。
人生の糧になるものはいろいろあるけれど、僕は最終的に音楽になってしまうんだろうな。

やっぱり、ロックンロールやね。

盛り上がってきたぜ、なにごともないのに

ああ、もうなぜか!タイピング欲がここ数日めらめらとむらむらと燃え上がって盛り上がっていて帰宅・食後即叩く!といった具合である。

こんなのはじめて!!

とまでいかないがどうにもこうにもいろいろと頭から駄文やら名言じみた妄言や妄想空想があふれて出てくるのです。

ここ数年、いやいや、10年近くくすぶっていた脳の空想発明機関がぐるぐると歯車を回して蒸気を挙げて、わたしのことを前へ前へと押し出しているかのようです。

こんな気持ちなったのは学生時代のころはよくあったのだけど、大学を辛くも卒業し就職しくじりなんとか社会に潜り込んでからは身を潜めていた部分でありました。

ようやくして頭の切り替えを完全に行えるようになったのかはたまた学生時分の妄想空想現実逃避力がここにきて蘇ったか新たに手に入れることができたのでしょう!

すこしだけすばらしいきもちだ。

顔も名前も覚えるのが下手で、エーと…思い出せないくらいならばたいしたひとやものではないのだろうと、二度目にはスルーという行動、もはや性癖ともいうべき行動を繰り返してきた結果として感情の起伏がずいぶん控えられてしまっていたのだろうなあ。

学生時分といいますのは、ひとところに数十人が押し込められて一応は仲良く仲間として扱われるものでして、嫌が応にも腐れ縁のようなもの人によっては赤い糸やらどす黒い糸で結ばれてしまうもので、なにかと太い縁ができてしまっていたものですが、これが社会ともなりますと、まさに一期一会の繰り返しでして、自らが率先してあるいは相手がむやみやたらと踏み込んでいったりされたりしなければ縁などできようもないということにごくごく最近ようやく気付いたのでした。

好意も悪意もなんらかの行為で示さなければ相手には響かず届かず時間ばかりがただただ平等に流れてしまうわけで。

ひどくすっきりした気分だ。
このまま良い方向にじんせいが向かっていけばよい。

かじ取りするのいつだって自分自身でしかないのであるから。

先は、長い。

ただただ眠い

眠気がひどくてね。

いや、べつに睡眠時間が取れていないというわけではなくて、だいだい起きる7,8時間前には布団に潜ってはいるから、そのぐらいは何もしない時間を毎日とれているはずなんだがね。

どうにもこうにも寝つきが悪くて、入眠の瞬間というのはいつも判断がつかないものだけど、それにしたって寝た気がしない。
そういう毎日を送っているんだよ。
何が不安ってわけじゃない、明日が怖いというわけでもない。
べつに起きていたって何がしたいわけじゃあないんだけど、どうにもこうにも寝付くことができないわけさ。

じゃあ眠気に煽りをつけようって酒を飲んでもダメなんだ。
ウイスキーを引っかけたって、ビールを煽ってもダメ、ワインや焼酎は明日に響くから手を出せないし、あれらを飲むと眠りが浅くなってしまうから、あえて飲みたくはないし。

食後なんかはうとうとするから短く寝込んだりもするんだが、ハッと目が覚めてから慌てて風呂や歯磨きをして、さあキチンと寝ようじゃないかと改めて布団に潜るころにはいつも以上に目が冴えていて、いよいよ眠れなくなってくるんだ。

毎日やっているわけだし、それこそ生まれてから今日まで一日だって眠りにつかなかった日なんてなかったはずなのにどうしたってこんなに上達しないものなんだろうか。

眠ることくらいうまくできたっていいのにね。

センチメンタルとノスタルジーと郷愁感と切なさと、エモさ

ひさしぶりに大学の時代のひとたちと飲みにいった。
テキトーにご飯か飲みをして、フラフラっとダーツに行くのがいつもの流れで、今回もそんな流れだった。

話をして、遊んだ、感じることがみんな変わったようで根底の部分は変わった居ないなということで、自分もやはりそう感じてもらえてるのかな、なんて少しも成長してないなという煽りじゃなくて当時から今日までが地続きでみんな変わらず生きていてくれて本当によかったなぁ、とセンチメンタルに感じたわけだ。

と、端からはそう見えても、一歩引いてみたりよくよく話し込んでみると、良くも悪くも歳を重ねて時の流れを感じたりして、精神的な本質は変わらなく、肉体的にはやっぱり酸化・老化しているのかな、なんて思って学生の時とはやはり勝手が違う部分があり、そこに関してはノスタルジックな気持ちになる。
地元に就職して実家通いだから生活半径なんて変わっていないのにね。
自分が変わらずとも周りは変わっていく寂しさみたいなものかもしれない。

いつも通う道でも、ときたま通る道であっても、自分の意志とは関係なく街は変わっていっていることを常日頃よく感じるようになっている。
昔の記憶・映像が瞼の裏と脳裏にチラついて、ちっとも現実を受け入れられないでいるのかもしれないな。
あのときのあの場所はもうどこにもなくて誰いないんだな、なんて村を焼かれたエルフみたいな郷愁感を感じたのかな。
復讐心とかそういうのはないけどね。
他意は他意だけどそこに悪意はなくて善意で街は変わっていくのだろうから。

そうしてくると、どうしてもなにかこみ上げてくるものがあってそれはなかなか説明がつかないんだけど、変わりゆく世界や街や人に合わせて自分は変わっていけているのか、そも変わっていく必要はあるのかななんて。
受け入れたくない変化は拒んでもいいし、自分の思う形へ変貌させてもいいわけだし、他者の意見だけで自分を取り繕う必要はないんだよね。
ようやくちょっとその辺が見えてきて、自分のここまでの人生の歩み方を思い返すと切なさがある。

ひとひとりごとに人生があってエゴがあって流れるままに流される人もいれば流れを作っていけるひともいるんだよなぁ、とピンと来た。
人はどこまでも自由でだからこそ個人であってパーソナルで独立していてそれでいってやっぱり最後は一人ばぼっちなんだろうな。
そういうのが僕としてはエモさになるんだけどそうでもないのかな。
エモってのはエモーション、エモーショナルってことだから辞書で引いたら感動的ってことだからなんでもいいから心が動いたり響いたりしたらエモいってことでしょう。

感動ってのは感傷にも似ていてそれはエモくてセンチメタリックでノスタルジックでどうにもならないことなんだろうな。
できることなら手の届く範囲はどうにかしたところだな。

くらむぼんみたいに。
ふわふわ

映画「人間失格」を観た。二階堂ふみがいろいろ衝撃でしたよね。

ちょっとまえに観に行きました。

小栗旬主演で太宰治の半生というか人生というか人間性というか作家として売れてスランプに陥って死ぬまでを描いた作品でした。

蜷川作品ですので噂通りに映像の華やかさが際立って素晴らしかった半面、太宰治人間性が垣間見えた良作でした。

さて、この作品によれば太宰治という作家は極端に実体験を元にしてしか作品を作れない作家であったようで、仕方なく不倫に走っているということをしきりに言っていた。
実のところは恋愛体質でありながら手を付けた女性を切ることができずにいる人間らしさがあった。
心中して相手は死んでその出来事をそのまま作品に利用するような下衆でくずな作風なのに本人が悪人になり切れていないという苦悩がなかなか生々しく面白くあった。
はじめは太宰が3人の女性の人生をぐしゃぐしゃにしていくのかな?と観ていましたが、最終的には3人の女性をすべて立てようとして耐え切れず太宰がぐしゃぐしゃになっていくさまは恐ろしくあり同情を感じるような場面もありましたがそこに至るまでの経緯が下衆の極みですから最後には妻役の宮沢りえとともにすっきりした気分になりましたね。

編集者の悪行がネットやなんかでは最近話題になっていますが、劇中の時代の編集者・出版業界というのは、売れれば何やってもいいんだよ、という雰囲気がバリバリだったという時代背景もあってか、作品のために下衆に走る太宰を止めもせずあおるような描写もあり、それがあってあんな生き方になってしまったのかな、なんて思ったりもした。
作家になったから、ああいう取り巻きに囲まれたから、太宰はああなってしまったわけで、もっと良い環境で良識的な作品がヒットすればもっと、長生きして、もっと作品を残して、まあ足られ場はやめよう。

ひとりの作家の人生が好転して急転して落下していくさまは映像と音楽と俳優陣の美しさもあいまって素晴らしいので是非とも見てほしい作品である。

あと、R-15ってこんなにエロくていいのか…と驚きながら見てたら二階堂ふみのおっぱいが見れて、いっしゅん意識が飛びましたよね、びっくりした。

その辺のエロティックさも含めておすすめです。
もう劇場上映はほぼほぼ終わっているだろうけども、チャンスがあったら観に行ってほしいなあと思います。

終わり。

映画「JOKER」を観た。直前にダークナイトとバットマンビギンズも観た。

増税に怯えて割と大きめの44インチサイズのモニターを買い、以前より持っていたAmazon fire TV Stickを接続したところ、起動から動画につながるまでの速度が爆発的に上がり、そこそこ映画を観ている。

兼ねてより気にはしていたが視聴はしていなかったいわゆるアメコミ系のDC作品を観始めた。
ダークナイトバットマン・ビギンズを視聴した。
あとから調べると順番は逆だったようだが、なんて切ないストーリーだろうか、とマーベル作品ばかり見ていたからハッピーエンドになるとかそうじゃなくても救いがあるのかと思いきやそんなことはぜんぜん無くて勝手な正義感でごくごく狭い地域であるゴッサムをどうにか救済するという作品の人気に比べてなんて狭い世界での話なのかと驚いた。
それでいて救いのない、暗く、重い世界観とストーリー。
デップーがバカにしていたのもよく分かった。

そんな作中で悪のカリスマながら屈指の人気を誇る、JOKER。
僕自身も風評だとかそのデザイン性はかなり好みで、どこかでじっくりと彼を知る機会はないかと思っていたところで、今回の映画「JOKER」の公開があり、この度念願かなって観ることができた。

さて、JOKERである。
今作での彼の名前はアーサーという。
アーサーといえばアーサー王伝説が想起される。
が、王の名を冠していながら彼の生活は真逆の道化、ピエロを生業としている。
結婚はせず、中年で病気に苛まれた母の世話をしながら暮らしていた。
嘘はつかないが、精神疾患か作中描写では外傷による脳疾患で笑いが止まらない、病気むしろ怪我だが笑うべきではないところで笑ってしまう。
ただそれだけで周囲には気味悪がられ、生きにくさが生々しく描かれている。
その症状というは性格ではなくて明らかに後天的な身体障害なわけだが、他人には要因なんて関係なく、ただただ気味悪がられるだけ。
惨めみじめに描かれるなかで、かなり単純な力を手に入れる。
それが本国アメリカで物議をかもしている拳銃なわけだ。
別に望んだわけではなくたまたま手に入れたそれが文字通りに引き金になって、彼はJOKERへの歩みを進めてしまう、進んでしまった。
アーサーのような貧困に陥っているひとは現代社会では、いや、いままでもそしておそらくこれからも存在していて、そちら側に居ないひとはフィクションと感じていて、そちら側に居るひとは非常に強い共感を得て、現実にもJOKERを求め、あるいは自らがJOKERになろうとしてしまうかもしれない。
さて、JOKERは悪なのか。
こちら側から見れば紛れのない悪だが、あちら側から見れば正義の執行者だ。
立場によって、正義と悪はぐるぐると目まぐるしく入れ替わる。
よくある話だ。

それだけに非常に影響力があるのだろうな。
良い映画だった。
善悪で言うと明らかに悪の話なのだけども、よい、興味深い、話だった。
また観たいような二度と観たくないような。
いろんな感情が働く物語だった。

作文はたのしい。それだけ。

とどのつまりはそういうことですよ。

ええ、昔から好きだったのか?喋るの下手なのか、頭の中でぐるぐると思惑ばかり巡らしていることが多く、それって結局口から出ていくことはなくて、髪の毛になって伸びていくくらいしか無いわけで。
髪なんか切り落としたら終わりだし、伸ばせっぱなしで生きていけるような生活をしていないわけで、これだけ時間をかけたあれもこれも散発したらどこかに消えて行ってしまうわけです。
それは少し寂しいですよね。

だからひさびさに作文をしているわけです。
昔はネット黎明期よろしく日記サイトじみていたりもしたわけですが、私生活をさらけ出すのも歳を経るごとに限界が出てきて、それというのも学校生活が仕事ばかりの日々になりますと、この広大なインターネットにばらまくには勇気がいることが増えてきてしまうわけですね。守秘義務なんかもあるしね。
ここで保存拡散されてしまえば自分ではどうにもならなくなってしまいますしね。
うかつなことが描けなくなった。
うかつなことが多かったからか昔のネットは楽しかったなんて懐古に浸れるのかしら。
昔は白とか黒かグレーとかよくわからなかったから真っ黒なできごとも個人が堂々と公開していて無法地帯でしたけども、いまはずいぶん整備されたような様子ですよね。
まあ、いまも昔も法律も含めてルールは守りたい人だけが守るみたいな風潮・文化は一部であるようですけども。

この一部という言葉も適当で100を1と99に切り分けてもどちらも一部ですからね。
全体に対しての比率は関係ないわけで、一部のわりにでかいなあ?、と一部は全体に対して小さいほうの一部と思い込んでいたりするわけです。
あれ、ぼくだけ?

比較的おっかなびっくり物事を考えて人に提案しているつもりなので細やかに提言とかするんですが、そこまで面倒見るんすか?、と言われることもあったりでそれはまあそうなんだけど、そこで叩いておかないと自分にも被害が及ぶよ?とときに忠告しているつもりなんだがどうしてなかなか。
まあ、自分が無傷ならたいていのことはどうでもいいんだけども。

なんでこんなエントリ?記事?を書こうと思ったかと言いますと、前回の記事がね、あまりにも気持ちが出すぎいて、ちょっといちばん上に出しておくのはなあ…と思い当たったからです。
推敲も見直しもしてないのでてにをはとか誤字脱字も散見するんだけどそれはそれで気持ちが入っていていいかな、とも思って。
やっぱり自分の書く文章というのは自分の胸に響くなあとこのブログの記事にしたって中高生に書いていた小説なんか読み返したって思うんですよね。

やはり俺の書く文章は俺の趣味に合っている!!


なんてね。
そういう独りよがりが結局抜けなくて今日に至るんだけど、いまさら他人の思考にすり寄るのも面倒でというか他人の思考読めないしな。
空気はわからるんだが人の心の中までは除けないって財務省のひとも言っていたし。

本当に言いたいことはタイトルの通りでどんな内容であれ作文は楽しいよね。ってことです。
ええ、僕にとってはですけども。
一部の同じような趣向の人に会えたらいいな。
なんてね。